
【A地点】 西衣山駅付近(手前を走るのはJRの「しおかぜ」)
もう一つの失われた伊予鉄の隧道である衣山隧道は、古三津から松山平野へ抜ける江戸谷にありました。
江戸谷は藩政時代から松山藩の参勤交代路でもある三津街道(現県道19号線)が通っていた交通の要所で、明治以降はこの谷間の狭窄部に伊予鉄道(明治21年開業)、松山電気軌道(明治44年開業・昭和2年廃止)、国鉄予讃線(昭和2年開業)が相次いで敷設されています。この中で廃線になっている松山電気軌道についてはいずれ別項にて紹介する予定です。

【B地点】 明治中頃の三津街道(現・西衣山駅付近)
三津街道の内、旧衣山村内の区間は急坂(衣山隧道上が最高所)に加え、雨が降れば人馬の通行もままならない泥濘と化してしまい、かつては「八丁畷」の難所と呼ばれる非常な悪路でした。この為、松山〜大阪間の木材貨物運賃は三津浜〜大阪間よりも松山〜三津浜間の方が高くつく有様だったとまで言われたそうです。
このような三津街道の劣悪な交通事情は伊予鉄道が設立される大きな原動力になり、明治21年に中四国九州で初の鉄道として松山〜三津間が開業する事になります。

【B地点】 現在の三津街道(上の写真とほぼ同位置)

明治36年測図「松山」(1:20,000地形図)

現在の衣山周辺地図

衣山隧道跡(奥が衣山駅側)
衣山隧道も昭和6年の電化・複線化時に開削されましたが、伊予鉄道発行の「五十年譜」にて煉瓦のアーチ環だけが残った状態の開削途中の衣山隧道を見る事が出来ます。昭和6年以前の地形図には衣山隧道の約150m東方の堀割にも跨線橋(点線道)が描かれていますが、こちらは開削後に再建される事はありませんでした。

三津街道の跨線橋
隧道の跡地に架けられた三津街道の跨線橋は、昭和6年当時の物が現在も使われています。

跨線橋の上から衣山駅方面を見る

【C地点】 牛車が通る明治中頃の三津街道
この三津街道の写真は松山城の見え具合から衣山隧道を跨いですぐ東側のようです。
詳しくは松山電気軌道の項で書きますが、衣山隧道東付近(【C地点】)〜六軒屋間の三津街道上には、明治44年から昭和2年まで松山電気軌道の軌道線(路面電車)が敷かれていたものと考えられます。

【C地点】 現在の三津街道(上の写真とほぼ同位置)
松山城はほとんど見えなくなった

衣山金比羅神社から三津街道と松山城を見る
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