南津電鉄01
絹の道入口

国道16号線の御殿峠(八王子市)から鑓水に抜ける裏道市道の道中、絹の道入口の分岐点には庚申塔、供養塔、道路改修記念碑(岸耕地道路)に混ざって鑓水停車場の碑が並んでいます。この碑は昭和初期に神奈川県津久井郡川尻村(城山町を経て現在は相模原市の一部)と玉南電気鉄道・関戸駅(現在の聖蹟桜ヶ丘駅)を結ぶ事を計画した南津電気鉄道株式会社が開業に先んじて昭和天皇の御大典記念として当時建設中だった鑓水駅の用地に建立したものです。
南津電鉄は鑓水の生糸商人や養蚕農家が中心となって設立した会社だった為、当初から資本力に乏しく昭和4(1929)年からの世界恐慌によって生糸価格が暴落すると、たちまち資金繰りが悪化して建設工事は頓挫してしまい昭和9(1934)年になると遂に南津電鉄は鉄道路線を開業する事なく会社を解散しています。
途中まで建設が進められた路盤跡は戦後の宅地化によって姿を消し、現在地に移設された鑓水停車場の碑だけが残されました。

地図


南津電鉄02
鑓水停車場の碑



南津電鉄03
南津電鉄の路線略図
(相模川尻~鑓水)

南津電鉄は第一期工事として、まずは相模川尻~鑓水(約6~7km)間の建設に着手する事にしました。昭和3年10月21日には鑓水の本社前と相模川尻駅の予定地で起工式が行われたそうです。当時の第一期工事区間の沿線には広大な農地の中に小集落が点在しているだけでしたが、現在ではすっかり開発され尽くした感があり、丘陵の谷間である久保ヶ谷戸でさえ宅地化されています。
なお、会社解散から間もない昭和11(1936)年及び昭和19(1944)年に撮影された空中写真を見てみると、南津電鉄の路盤跡らしき線形が確認できるのは久保ヶ谷戸から鑓水にかけての約1.8kmだけでした。久保ヶ谷以西は平野部だけに路盤が早々に撤去された可能性もあるので、これをもって相模川尻駅から久保ヶ谷は未着工だったと断言する事はできませんが、起工式から僅か半年後の昭和4(1929)年5月には工事中断に追い込まれている為、実際に工事が行われたのは鑓水から久保ヶ谷戸までに留まったのかもしれません。
となると「鑓水近辺では一部レールの敷設も完了し…」 とか「請負師たちによって換金のために敷設済のレールを引き剥がして売り飛ばされてしまう…」 と言ったwikiの記述には、一駅間(鑓水~相模相原)さえ路盤が完成していない状態でレールが敷かれるだろうか?と疑問が湧いてきます。真相は売り飛ばされたのは工事用トロッコのレールか何かの間違いで、「完成間近の鉄道が請負師たちの横暴によって多額の負債だけを残して未完に終わってしまった」という地元の無念の想いから生まれた誤伝なのではないでしょうか。


南津電鉄04
城山交番前交差点
(相模川尻駅建設予定地)

南津電鉄の終着駅である相模川尻駅は、現在の国道413号線と旧道が分岐している城山交番前交差点の旧道側に設置される予定でした。この地は旧川尻村→旧城山町の中心地であり、駅予定地の付近には現在も相模原市城山総合事務所があります。


南津電鉄05
城山交番前交差点の白看



南津電鉄06
相原駅のホームから橋本方面を見る

前述した通り相模川尻駅~相模相原駅間は未着工だった可能性が高い区間なので遺構を期待する事はできません。それどころかルートさえ正式には決まってなかったらしく、北側に迂回して横浜線の相原駅に乗り入れる計画(上の略図に青点線で示したルート)と、横浜線を橋本高校付近で東西に真っ直ぐ通過する計画がありました。


南津電鉄07
【A地点】 元橋本交差点から八王子方面を見る

横浜線以東のルートは元橋本で国道16号線を横切ると、寿橋付近で境川を渡って久保ヶ谷戸の谷間に取り付く計画でした。もし、南津電鉄が開業して現在まで残っていたとしたら、八王子バイパスの元橋本交差点付近には跨線橋が建設されていたでしょう。


南津電鉄08
ミスターマックスの屋上駐車場から【B地点】を見る

南津電鉄の中では唯一、路盤が完成していたと見られる久保ヶ谷戸の山越え区間の谷間も宅地化されていて、路盤跡は跡形も無く消失しています。南津電鉄の久保ヶ谷戸越えを地形図で簡単に読み取ってみると、概ね33‰(南側)から40‰(北側)程度の勾配になっていたようです。


南津電鉄09
ミスターマックスの屋上駐車場から【C地点】を見る

鑓水方面もこの通りの有様。この先の鑓水に向けて下り坂となる路盤跡(多摩美大東側)は多摩ニュータウンの用地に取り込まれていて立入禁止になっていました。仮に入れたとしても既に整地されているようなので何の遺構も残ってないと思いますけど。


南津電鉄10
久保ヶ谷戸越えの路線図



南津電鉄11
【D地点】 鑓水駅跡

南津電鉄の本社も置かれていた鑓水駅の跡地は柚木街道(都道20号・府中相模原線)から少し入った大栗川沿いにありました。柚木街道の賑わいとは裏腹に駅跡は御殿峠からの抜け道(市道)を抜けて来た車が時折通るだけでひっそりとした雰囲気です。地元にとって南津電鉄は結果的に災厄だけを残した負の遺産である為か、この地が南津電鉄の本拠地であった事を示すような物は見当たりませんでした。
鑓水から先の経路は柚木街道→野猿街道に沿って関戸、国立まで延伸する計画がありましたが、二期工事以降の着工となる同区間はルートの詳細までは決まっていなかったようです。


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