
昭和7年鉄道補入「松山北部」(1:25,000地形図)
旧今治街道(国道196号線)には姫原から鴨川にかけて「七曲り」と呼ばれる屈曲の連続する区間がありました。これは宇和島の七曲りのような地形的な制約による物ではなく、松山城防衛の為に敵の進軍を遅らせる事を目的とした一種の枡形で、その由来は遠く加藤嘉明の時代まで遡ると言われています。このような意図的に造られた交通の障害が近年の自動車交通時代に許容されるはずもなく、昭和40年頃に七曲りは直線化され現存していませんが、旧版地形図を見ると確かに七回曲がっているのが確認できます。

旧版地形図と現在の地図を見比べてみると、七曲りのごく一部が現存している事が分かったので早速現地へ行ってきました。推定ですが赤線が消失した部分、青線が現存する部分です。

【A地点】 一〜三曲り跡
最初の屈曲部は黄色の看板から奥のauショップ辺りまで、かって左側に膨らんでいたようですが、完全に私有地になっていて道形は全く残っていません。この緩やかな膨らみが一〜三曲がりだった物と思われます。

【B地点】 三〜四曲り跡
三曲りから四曲り間の直線約50mは吉藤団地への入口として現存しています。この路地がかつての今治街道だと知っている人が一体どれぐらいいるのでしょうか。

【B地点】 旧国道196号線

【C地点】 四曲り跡
角田池への突き当たりが四曲り跡。ここからは角田池に沿って北上して次の五曲りまで200mほどの直線になっていました。この内、南側の約150mは団地や現国道敷きになって消失し、北端側の約50mのみ現存しています。

【D地点】 赤いラインが消失した旧道の跡

【E地点】 七曲り跡の碑
愛媛自動車学校の裏から旧道が市道の一部として少しだけ復活し、朝美公民館による「史蹟 七曲り跡」の碑が建ってました。せっかくの記念碑ですが七曲りの痕跡がほとんど残っていないだけに、由来を書いた案内看板の一つでも欲しい所です。

【F地点】 五曲り跡
ほぼ直角カーブだった五曲り跡地。現在は直進する市道しかありませんが、幅員が少し狭くなる箇所に左へ曲がろうとする旧道の線形が残っているような気がします。

【G地点】 六曲り跡

【H地点】 七曲り跡(鴨川交差点)
七曲り最後のカーブからは直進する新道が建設され、新旧道が分岐する鴨川交差点になっています。右折する旧道は潮見地区(旧潮見村)の生活道路や抜け道として機能しており、約1km先で新道と合流しています。

松山城から見た城北地区(昭和初期頃)
七曲りには進軍速度を遅らせる他に松山城から敵の数を計る目的もあったと言われ、昭和の始め頃に松山城天守から撮影された写真には七曲りの道筋がはっきりと写っていました。
(同じ位置から撮った現在の写真はこちら)

上の写真の部分拡大

松山城天守
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