萩原橋01
都道32号線(八王子五日市線) 萩原橋

長女を眼科に連れて行った際に待ち時間を有効利用しようと思い、通勤バスの車窓から見えるので気になっていた萩原橋袂の石碑を見に行ってみました。萩原橋は八王子市内を流れる浅川に架かる都道32号線の橋で「八王子八十八景」なるものの一つに挙げられています。その起源は古く八王子における製糸業の創始者である「萩原彦七」が私財を投じて架設した事から彦七の功績を称えて橋名としたものだそうです。

地図


萩原橋02
萩原橋架橋記念碑

石碑はやはり萩原橋の架橋記念碑とも言うべき萩原彦七の頌徳碑でした。表面には寄付者名が列記され、出願人の筆頭には萩原彦七の名が刻まれており、裏面には架橋に至る経緯が記されてきました。以下に裏面の碑文の原文と現代語訳を記しておきます。

曩キニ東京府ハ二道ノ橋梁ヲシテ 一橋ニセント企テタリ依之吾人等
思ヘラク是将サニ商工業ノ發展ニ 一大支障ヲ加フルモノナルヲ以■
遂ニ有志ノ恊賛ヲ得テ明治三十三 年一月二十七日東京府ノ公許ヲ得
テ淺川ニ橋梁ヲ架セリ於之橋梁費 及土地買収費等一万三千百三十五
円餘ノ費ヲ要シテ工事落成シ一般 交通者ノ便ヲ得ルニ至ル
凡ソ交通機関ノ必要ハ論ヲ待タズ 決シテ私有スベキモノニ非ラザル
ヲ以テ明治三十六年二月東京府ニ 獻納シテ吾人等ノ素志ヲ貫徹スル
ニ至ル依テ将来ニ於ケル紀念トシ テ碑ヲ建テ恊賛者ノ芳名ヲ永ク傳
ヘント欲シ之ヲ表面ニ記スト云爾 
明治四十年五月


東京府は道路が二つあるのに、架橋を一ヶ所だけにしようとしていた。
それでは商工業の発展に一大支障があるので、有志の協賛を得て明治33(1900)年1月27日に東京府の許可を得て浅川に橋梁を架けた。この架設費用、土地買収費等には13,135円余を要して工事は落成し、一般交通者の利便を得た。交通機関の必要性は論を待たず、決して私有すべきものではないことから、明治36(1903)年2月東京府に献納して我らの意志を貫徹するに至る。
将来における記念として碑を建立して協賛者の芳名を永く、伝えたいと考え表面に記すこととする。
明治40(1907)年5月


萩原橋06
昭和22年発行「八王子」(1:50000地形図)

碑文にある「二道ノ橋梁ヲシテ一橋ニセント」とは明記されている訳ではありませんが、萩原橋の下流600mに架かる浅川橋を指しているものと思われます。
浅川橋の道は古くは「千人同心街道」あるいは「日光街道」と呼ばれる八王子と日光、今市を結ぶ主街道でした。昭和38(1963)年には東京環状・国道16号線の一部となり現在に至っています。


萩原橋07
現在の国道16号・浅川橋(昭和38年1月竣工)



萩原橋03
平成元(1989)年撮影の航空写真に写る萩原橋

萩原彦七が架けた初代の萩原橋は明治34(1901)年の竣工。長さ115m、幅員3.6mの木造橋であったと言われています。この橋は老朽化により大正12(1923)年に同じ木造橋で架け替えられ(二代目)、昭和6(1931)年には当時は永久橋と言われたRC橋となりました(三代目)。さらに平成2(1990)年に架け替えられたのが現在の萩原橋(四代目)です。三代目から四代目への代替わりの際には仮設の橋が架けられていたようで、その様子は国土交通省の航空写真が捉えていました。


萩原橋04
平成2年竣工の現・萩原橋(南側から)
仮設橋は上流側(写真左)に架けられていた。



萩原橋05
萩原橋北交差点から五日市方面を見る

萩原橋の北側のカーブの内側にはガードレールに遮られた不自然な余地があります。引っ越してきた当初は、これを将来の都道の拡幅用地かと思ってましたが、どうもそうではなく仮設橋を設置した際に生じたスペースなのではないかと思うようになりました。


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