三津の渡し01

2月21日(木)の読売新聞夕刊を読んでいると、我が地元(愛媛県松山市)の「三津の渡し」が紹介されているのを見掛けました。


三津の渡し02
【A地点】 三津の渡し(三津側から)

三津の渡しとは三津浜港内約80mを運行している渡し船です。
渡し船が結ぶ三津~港山間の陸上交通は三津浜港に遮られている為、大迂回を要する事から地元の徒歩移動者にとっては重要な航路であり、年間5万人もの人が利用しています。私も過去に2回、観光目的ではない実用的な利用をしました。運航時間は7時から19時まで、松山市道の一部なので無料で乗船できます。


三津の渡し03
【B地点】 湊三嶋神社から見た三津の渡し

三津の渡しの歴史は古く今から500年以上も昔の室町時代に、三津浜港の防衛拠点として築城された港山城(写真左側)と城下町の三津浜(写真右側)を結ぶ輸送路として開設されたのが始まりと言われています。

渡しの由来

三津浜の人びとはこの渡しを「洲崎の渡し」「三津の渡し」と言い、港山の人びとは「古深里の渡し」「港山の渡し」と言っている。
文明年間(一四六九)伊予守河野通春が港山城主であったとき、この渡しを利用したのが始めだとも言われ、松山城主が三津を水軍の根拠地と定め(一六〇三)ここに御船場を置き、御船手を配置(一六三五)してからはその統括の下に運行されていた。
寛文四年(一六六四)洲崎の魚市売買に御沙汰があったことにより商人などでにぎわい、また小林一茶も古深里洗心庵の句会のとき渡っている。(一七九五)
大正の初めころまでは小舟を水竿で操り、その後手漕ぎ時代が長く続き、昭和四十五年(一九七〇)エンジン付渡船となった。
現在正式名称は松山市道高浜二号線の一部(約八〇米)である。

(松山市設置の案内板より)



三津の渡し04
【C地点】 三津の渡し(港山側から)

私が最後に乗船した2009年1月の時点では「すさき丸」一隻で三津の渡しを運航していましたが、老朽化のため平成22(2010)年3月からは新たに新造船の「こぶかり丸」が就航しています。いずれの船名も接岸地の地名である「洲崎」「古深里」から取ったものです。


三津の渡し05
手漕ぎ時代の三津の渡し

乗客「おいさん、なかなか毎日御精が出ますやあなア」
船頭「ヘイモウつまりまつせんやなア」
乗客「なしだすかいなア」
船頭「なしだすかいなつてあなたア、モウこげん年の老たぎんにやアお天気のよかときやアよかばつて、しけで海の荒らか時やア、骨が折れますやなア」
乗客「そればつてん、もうかりまつせうもン」
船頭「それが一向つまりませんたイ、きつかばつかりで」


現在の三津の渡し船は松山市からの委託による市職員が船頭(?)を務めています。


三津の渡し06
角田造船所 第二工場第一ドック
【近代土木遺産Cランク】

渡しの港山側のりばから港に沿って東に少し進むと、大正時代に建設された角田造船所第二工場(旧石崎船渠造船所)の石造ドックを見る事ができます(【D地点】)。西側が第一、東側が第二ドックで、いずれも現役使用されており近代土木遺産(Cランク)に指定されています。


三津の渡し07
角田造船所 第二工場第二ドック
【近代土木遺産Cランク】



三津の渡し08
【E地点】 港山城登山口

三津の渡しの生みの親とも言うべき港山城跡は入口こそ小奇麗に整備され案内板も建っていますが、すぐに荒れた竹藪に阻まれてしまい山頂への登頂は非常に困難な状態になっていて、現存しているという「石積み」、「井戸跡」についても判然としませんでした。

港山城跡

この城は、建武年間(一三三四~一三三七)に河野通盛が道後湯築城を築いた築いたときに、海の守りとして築城したといわれている。
江戸時代の地誌『予陽郡郷俚諺集』に、「湊山城、同所。河野伊予守通春逝去。又、戦場に於いて討死ともいふ」とある。
一四六〇年代に、河野通春が湊山に堅固な城を築いた。当時、河野家は、湯築城に拠る宗家の河野教通(通直)と湊山城に拠る庶子家の通春に分かれて争っていた。通春は、周防(山口県)の大内氏とも結び、制海権を有して、教通を凌ぐ一大勢力をもっていた。応仁の乱後、通春は、文明一〇(一四七八)年と文明一三(一四八一)年の二度の戦いを教通とし、ついに湊山の北麓で流矢にあたり戦死したと言われる。
天正一三(一五八五)年、秀吉の四国征伐で滅び、廃墟となった。今も、石積み、井戸跡、三つの郭跡等が残っている。

(松山市設置の案内板より)



三津の渡し09
竹藪に覆われた郭跡



三津の渡し21
対岸(三津側)から港山城跡を見る



三津の渡し10
【F地点】 海上から見た港山城跡と三津浜港



三津の渡し11
伊予三津港

上の写真とほぼ同じ位置から撮影された戦前絵葉書。
陸地から伸びる防波堤と突端の灯台は現存していません。歴地形図を比較してみるとこの灯台は明治36年版にのみ描かれ、昭和初期の版では消失しているのが確認できました。


三津の渡し22
明治36年発行「松山」(1:20000地形図)



三津の渡し12
三津浜築港起工紀念碑

三津二丁目の恵美須神社境内には明治42(1909)年7月13日に開催された三津浜築港起工式の紀念碑が建っています。この築港事業は松山電気軌道と同じく高浜開港に対抗した三津浜の巻き返し策の一環でしたが、起工式から一月も経たない7月30日に疑獄事件に端を発した県知事が交代する政変が起こり、三津浜築港は中止される事となり起工式の紀念碑だけが虚しく残される結果に終わりました。
その後、三津築港は規模を大幅に縮小して大正5(1916)年にようやく起工に漕ぎ着け、7年後の大正12(1923)年に竣工しました。この大正時代の築港工事によって上記の防波堤と灯台は撤去されたものと見られます。


三津の渡し13
松山名勝三津港ノ全景

港山城跡から撮影されたと見られる昭和初期頃の三津浜町。手前に見える丸屋根が当時の魚市場です。


三津の渡し14
港山城跡から三津浜町

絵葉書の定点撮影をしようと思って港山城跡への登城を試みましたが薮に阻まれて途中で断念、これが限界でした。また、山頂まで登頂したところで樹木に遮られて眺望は得られないと思われます。


三津の渡し15

「三津港ノ全景」絵葉書の中には現存している建物が少なくとも二つありました。山谷運送部と石崎汽船本社で、いずれも前述の三津築港事業に合わせて大正13(1924)年~14年にかけてに建てられた物件です。


三津の渡し16
【G地点】 上の絵葉書と同じ位置(現在の国道437号線)

山谷運送部、石崎汽船前の道路は昭和57(1982)年に国道437号線に昇格していますが、三津浜港へは西側の三津ふ頭内を広い市道が通っている為、事実上の旧道化していて交通量は多くありません。


三津の渡し17
山谷運送部

山谷運送部の社屋は一見するとRC造りのように見えますが、実際は2階建ての木造モルタル塗です。国登録有形文化財に指定されています。


三津の渡し18
石崎汽船本社ビル

山谷運送部のはす向かいに建つ石崎汽船本社ビル。こちらは地上2階・地下1階のRC造りで、やはり国登録有形文化財です。建造当時は屋上からは港に出入りする船が手に取るように眺められ、三津浜に入港する船はこのビルを目印にしたそうです。


三津の渡し19
三津浜港に寄港した豪華客船「飛鳥Ⅱ」
(2008年10月24日撮影)



三津の渡し20


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