
波止浜塩田
(戦前絵葉書より)
瀬戸内海に面する今治市の波止浜は新居浜市の多喜浜と並ぶ県内屈指の塩田地帯でしたが、戦後になると国策としてイオン交換膜製塩法が導入されたため、双方とも昭和34(1959)年に廃田になっています。塩田が廃止になった後の波止浜には、塩田跡地の有効活用を目的に波止浜興産株式会社が設立され、かつての塩田はゴルフ練習場、自動車教習所、工業地、住宅地に姿を変え、その後の波止浜の発展に大きく寄与しました。

波止浜塩田跡
(令和元年5月4日撮影)

波止浜塩田
(昭和22年撮影の空中写真より)
私は子どもの頃に波止浜の道路地図を見て、城跡でもなさそうな堀の形状を不思議に思っていたけど、正解は塩田の跡地だった訳です。地図上では内堀、中堀などの塩田時代の地形が良く残っているように見えますが、実際に現地に立ってみると前述のとおり開発が進んでいるため塩田の面影は感じられません。

現在の波止浜塩田跡
(令和元年5月4日撮影)

波止浜塩田の解説パネル
(今治のイオンにて)
波止浜塩田は天和3年(1683)、長谷部九兵衛によって県内最初の入浜式塩田が完成したことによる。
塩田はその後も拡張され、製塩とそれに関連する仕事に従事する人々も多かった。
また、明治以降になると、波止浜塩田の一族による今治にて様々な事業展開が行われ、その一部に、明治32年(1899)には今治商業銀行(今治市の有名銀行の一つであった)の経営に関わる。
同35年(1902)には物流産業を飛躍させる為、愛媛県最初の本格的様式造船所の波止浜船渠(現株式会社新来島波止浜どっく)を設立。
大正元年(1912)には今治瓦斯株式会社(現四国ガス)の設立するなど、今治に多くの経済効果をもたらす。
その後、安価なイオン交換による製塩にとって代わられ、時代の変化とともに製塩方法が変わり、昭和34年(1959)に塩田が廃止され波止浜塩業組合も解散し、瀬戸内海有数の生産を誇った製塩業は消滅へといたる。
その後、塩田の街から現代の造船の街へと時代は移り変わった。
(解説パネルより)

波止浜駅舎
(令和元年5月4日撮影)
今治~大西間の予讃線は今治街道(国道196号)から大きく外れ、近見山北側の波止浜~波方を経由する遠回りのルートを通っています。これは波止浜には塩田経営に携わる富豪が数多く住んでいたことから、その意向を無視することができなかった結果らしいけど、今となっては予讃線を高速化する上で大きな障害になってしまいました。

波止浜駅周辺地図
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