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南町03
道後鉄道から見た上一万跨線橋
(戦前絵葉書より)

上一万にあった跨線橋も古町跨線橋と同じく石造りの橋台にガーダー橋を架けた構造だったようです。松電の開業は明治44(1911)年、大正15(1926)年には松電の路線を継承した伊予鉄が一番町~道後間を複線化しているので、この跨線橋は最長でも10数年しか存在しなかった事になります。
跨線橋の傍には伊予鉄、松電双方の一万駅が設置されていて、伊予鉄・一万駅は跨線橋北側に、松電・一万駅は跨線橋西側にありました。


南町04
道後鉄道跡から見た上一万跨線橋跡
(平成22年3月17日撮影)

道後鉄道の廃線跡が道路に転用されているので、跨線橋があった場所は容易に特定できたものの、100年もの歳月が流れているため絵葉書と現状を比較してみても、とても同じ場所とは思えないほどの変貌を遂げています。




南町01
東側から見た上一万跨線橋
(戦前絵葉書より)

こちらは上一万跨線橋を正面から撮影した珍しい絵葉書ですが、タイトルは「松山市ニ於ケル阪本氏大飛行」 となっているので主役は松電ではありません。阪本氏とは大正時代に活躍した民間飛行家の阪本壽一氏と考えられ、彼が松山市を訪れた日が分かれば絵葉書の正確な撮影時期も判明するでしょう。


南町02
東側から見た上一万跨線橋跡
(平成22年3月17日撮影)






南町05
南町駅付近
(奥が大街道方面)

上一万から道後温泉にかけての県道は90年代中頃までは、複線の軌道に車道が上下一車線ずつの道幅であり、軌道敷内の通行が可能な区間になっていました。現在は車道も二車線に拡幅されているため、軌道と車道は分離されています。





南町06
道後公園から見た南町方面
(大正15年以前)

道後公園から撮影された以下の2枚の絵葉書は一見すると同じようなものに見えますが、よく見ると上の絵葉書は軌道敷が専用軌道であるのに対し、下の絵葉書では併用軌道になっている事に気が付きました。
元々の松電は一番町以東では単線の専用軌道であったところ、大正時代末期に県道松山道後線(現在の県道20号→188号)のバイパス道路が建設される事になり、この際に松電を引き継いだ伊予鉄・城南線も県道松山道後線上の専用軌道となった経緯があります(大正15年完成)。
よって上の絵葉書は大正15年以前、下の絵葉書は大正15年以後に撮影されたものと考えられる訳です。


南町07
道後公園から見た南町方面
(大正15年以後)



南町08
道後公園から見た南町方面
(平成22年3月17日撮影)






南町09
県道松山道後線の旧道

なお、旧県道松山道後線は大部分が現道の拡幅によって飲み込まれているものの、大街道付近【A地点】と道後公園付近【B地点】では現道とは異なるルートを通っていた旧道の一部が現存しています。


南町10
【A地点】 大街道3丁目の旧県道松山道後線
(現・ロープウェイ街)



南町11
【B地点】 岩崎町2丁目の旧県道松山道後線

⑧【公園前~道後】に続きます。


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