
松電開業前の伊予鉄・一番町駅
(戦前絵葉書より)
道後鉄道は道後温泉への旅客輸送を目的として敷設された軽便鉄道で明治28(1895)年に開業しました。その名の通り、道後駅(現・道後温泉駅)を起点として三津口駅(現・古町駅付近)と一番町駅(現・大街道駅)に向かう二つの路線を有していたものの、開業から僅か5年後の明治33(1900)年には伊予鉄に吸収合併され、現在の城北線の原型となる道後線として伊予鉄の鉄道網に加わっています。
ここに伊予鉄への対抗心を剥き出しにした松電が、明治44(1911)年に伊予鉄・城南線の原型となる一番町経由のルートで開業し、路線が並行する沿線各地で激しい乗客争奪戦が始まりました。
結果的に松電は伊予鉄に敗北した訳ですが(大正10年、伊予鉄に吸収合併)、一番町を含む城南地区に限っては伊予鉄と比べ経路、設備ともに優れていたので、集客競争を優勢に進めていたに違いありません。

松電が開業し、伊予鉄(左)と松電(右)の電車が並んでいる一番町駅
(戦前絵葉書より)

現在の大街道駅
(平成21年1月24日撮影)

大正時代の鉄道路線図
(青:松電、赤+緑:伊予鉄)

三越と大街道駅
大街道駅前に建つ松山三越は、伊予鉄VS松電の過当競争の歴史も遠くなった昭和21(1946)年の開業。幾度かの増改築を経て、開業から70年以上が経過した現在も一番町で営業を続けています。

三越と大街道駅
(平成30年7月23日撮影)

大街道駅から道後温泉方面を見る
一番町駅では隣接した位置にあった伊予鉄と松電ですが、駅から東に300mほど進んだ地点で袂を分かっていました。後発の松電が道後に向かうには、どこかで伊予鉄(旧・道後鉄道)の線路と交差する必要があり、跨線橋に向けて勾配を稼ぐためも助走的なルートを取る必要もあったのでしょう。
一番町~道後間にあった両社の鉄道路線は、合併後に中間的な位置を通る路線(現在の城南線)が新設され、それぞれの旧線跡が生じる事になりました。

旧・松電が通っていたルート(青線)は大半が城南線として現存しているものの、一番町~上一万~間には一部旧線となった区間があり、勝山交差点(勝山駅)をショートカットする市道に転用されています。
一方、旧・道後温泉のルート(赤線)は一番町~勝山交差点を除いた殆どの区間が廃線になっており、こちらも一部は市道に転用されていますが、道後一万以東は住宅街に飲み込まれ、確たる遺構は現存してないようです。

【A地点】 松電旧線を転用した市道
(一番町側から)

【B地点】 松電旧線を転用した市道
(勝山町側から)

【C地点】 上一万駅から上一万交差点を見る
上一万駅北側の上一万交差点は城南線と城北線の分岐点です。以前の上一万交差点は道後方面からの県道20号と平和通りが直結しておらず、変則的な五差路交差点になっていて混雑の原因となっていたため、90年代後半に「道後一万2」の街区を取り除いて道路を拡幅する大規模な改良工事が実施されました。

上一万交差点
(昭和50年の空中写真)

【D地点】 東側から上一万交差点を見る

松山城天守から見た道後方面
(戦前絵葉書より)

松山城天守から見た道後方面
(平成19年12月30日撮影)

戦前の上一万駅
この画像は上記絵葉書から上一万駅をトリミングしたもの。城北線の新ルート(上一万~木屋町)が開通しているので昭和2(1927)年以後の撮影と判断できるでしょうか。また、この時点で路線の一本化によって用済みとなった松電の跨線橋は既に撤去されている事も確認できました。この跨線橋については次回の記事(⑦【上一万~公園前】)で紹介します。
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