
新京橋
(戦前絵葉書より)
藩政時代の高知では城下の水運の便を図るため、高知城下の堀詰から鏡川の河口付近(浦戸湾)まで、堀川という運河が掘削されました。堀川に新京橋が架けられたのは明治5(1872)年のことで、南新町の住人だった吉田長太郎氏が官の許可を得て架設した賃取り橋だったそうです(明治28(1895)年に県道(現・国道32号)に移管されて無料化)。
絵葉書に写っている新京橋の竣工年は不明ですが、コンクリートアーチという構造と橋の規模から、明治5年に架けられた橋ではなく大正時代に架け替えられた二代目以後の橋ではないかと想像します。なお、新京橋の背後に写っている世界館という映画館は大正4(1915)年に開業したものなので、撮影時期は同年以後に間違いないでしょう。
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繁藤橋
(平成19年6月16日撮影)
徳島県三好市から高知県大豊町にかけての国道32号は、吉野川~穴内川沿いの山間部を通っています。国道32号が両河川を渡る橋(豊永大橋、長瀞橋、吉野川橋など)はいずれも昭和30年代に架けられた狭めの鋼橋で、大型車の離合が困難又は不可能であるため、現代における交通の難所になっています。このうち最も南側に位置しているのが昭和34(1959)年に穴内川に架けられた繁藤橋です。
【繁藤橋】
昭和34(1959)年竣工
延長50.9m、幅員6m
鋼トラス橋

川崎橋
(戦前絵葉書より)
「阿波三縄村(針金橋)」というタイトルの吊橋を写した戦前絵葉書。現在の三縄村は徳島県三好市池田町の一部になっていて、村役場は三好橋東詰の中西地区にありました。私は旧・三縄村の村域を三縄駅を中心とした三好市池田町中西の範囲内だけだと誤認していたため、この絵葉書の撮影地を長らく特定できなかったのですが、最近になって実際の旧・三縄村の村域は祖谷街道(県道32号)沿いの祖谷温泉付近まで及んでいたことを知り、改めて撮影地を探してみると針金橋は祖谷川に架かる川崎橋だと判明したのでした。
【川崎橋】
大正9(1920)年竣工
延長103.6m、幅員2.4m
針金吊橋
昭和45(1970)年廃止

大杉橋跡
(平成19年3月17日撮影)
高知県長岡郡大豊町内の吉野川にも賃取り橋だった吊橋の主塔が残っています。昭和7(1932)年に開通した旧県道5号・川之江大豊線の大杉橋です。同年の大豊町内には土讃線・大杉駅が開業しており、同年に完成した高須隧道と同じく、大杉橋の架橋は鉄道の恩恵を町内に行き渡らせることを目的とした道路整備の一環と考えられます。
昭和49(1974)年には下流側に同名の新しい橋(L=99.1m、W=7.5m)が開通したため廃橋となり、昭和50(1975)年に撮影された空中写真には旧橋は写っていないことから、廃止後には速やかに撤去されたようです。
【大杉橋】
昭和7(1932)年竣工
延長117.8m、幅員2.8m
木造鉄線吊橋
総工費43,000円
昭和49(1974)年廃止

旧・平野橋
(観光絵葉書より)
金砂湖(愛媛県四国中央市)の湖上に架かっている平野橋は、柳瀬ダムによる水没補償として架設された昭和28(1953)年の時点では付替新道(金砂湖南岸の県道6号と国道319号)と平野山の移転集落を結ぶ生活道路程度の役割しかなかったため、幅員3.6m、重量制限6tの吊橋という車両の通行には不適な規格で設計されていました。その後、昭和35(1960)年に伊予三島市森林組合の主導でに法皇隧道が開通すると、平野橋も伊予三島市街と嶺南地区を結ぶ幹線道路に組み込まれましたが、嶺南から木材を搬出するトラックの通行が多かったため、とりわけ6tの重量制限が輸送上のネックになったのでした。こうして本来の用途とは違う目的で利用されることになった平野橋は早々に架け替えが必要となり、昭和46(1971)年に現・平野橋が開通したことによって旧・平野橋は両岸の橋台だけを残して撤去されています。
【旧・平野橋】
昭和28(1953)年竣工
延長約160m、幅員3.6m、制限重量6t
吊橋
昭和46(1971)年架替

二代目・鉄橋
(戦前絵葉書より)
国道324号の浜町アーケード(長崎県長崎市)に接する鉄橋(くろがねばし)は、明治元(1868)年に初代の鉄製橋(L=27.2、W=6.5m)が架けられたことに由来します。その後、昭和6(1931)年に二代目となるRC橋が完成し、平成2(1990)年には現在も利用されている三代目の橋に架け替えられました。鉄橋の橋上は浜町アーケードと同じく、午前10時から翌午前5時までの19時間は歩行者専用道路の扱いです。
【二代目・鉄橋】
昭和6(1931)年竣工
延長-m、幅員-m
RC桁橋
平成2(1990)年架替