
A地点 仁淀川橋
【近代土木遺産Cランク】
高知県伊野町内の仁淀川に架かる仁淀川橋(L=373.7m、W=5.0m、下路単純トラス7連)。
今から約80年前の昭和5年に県道松山高知線(現国道33号線)の橋梁として完成しました。戦前に架けられた国道33号線の橋は昭和40年代までに全て旧道化している為、同国道の橋の中ではダントツの古さを誇っています。辛うじて二車線幅が確保出来ていた事が長寿の秘訣だったのでしょうか。最近になってようやく高知西バイパスの新仁淀川橋の架設工事が始まりました。

親柱 「によどがわはし」
親柱は歩道設置時に撤去されたのか下流側のみ現存しています。

橋歴板 「昭和五年十月製作 株式会社播磨造船所」

歩道部分(仁淀川歩道橋、W=2.0m)は昭和43年3月完成

仁淀川橋梁と新仁淀川橋
下流の方を見ると建設中の新仁淀川橋(L=508m)が見えました。その手前の鉄橋は土讃線の仁淀川橋梁です。新仁淀川橋は約1km離れているのでバイパス開通後も仁淀川橋は(たぶん県道39号線に編入して)生活道路として残る事になるでしょう。

【B地点】 仁淀川橋東詰の交差点
仁淀川橋を渡ると寒風山トンネルを経て愛媛県西条市に向かう国道194号線との交差点に突き当たります。丁字路ながらも国道33号線同士の行き来に青の時間をかなり長めに取っていますが、それでも朝夕には橋上を埋め尽くす程の渋滞が発生しています。

【B地点】 仁淀川橋
こちら側も歩道側(上流)の親柱が撤去されていました。

激しく損傷している親柱 「昭和五年十月架設」

【B地点】 仁淀川橋東詰の交差点(高知市側から)

【B地点】から対岸を見る
「さて帰ろう」と思っていると現橋のすぐ上流側に橋脚の基礎のような物??が対岸まで点々と続いているのに気付きました。

【A地点】から対岸を見る
それはやはり橋脚の跡だったようです。全部で5基残ってました。東側(写真奥側)には橋台は残っていませんが…。

【A地点】 煉瓦橋台
西側には立派な煉瓦製の橋台が現存していました。
これまでに何十回と通っている道ですが、車からは死角になっているのか全然気付きませんでした。現仁淀川橋が古い事もあって初代の橋梁だと勝手に思い込んでいた為、先代の橋の存在とその遺構が残っていた事には驚きました。

【A地点】 仁淀川橋西詰
(正面の電光掲示板の裏が煉瓦橋台)
そう言えば西側の橋への取付け道路は微妙にクランク状になっていて、以前からかすかな違和感は感じていたのですが、旧橋の存在に結び付ける事は出来ませんでした。まだまだ修行が足りないな。

旧橋の事が気になったので後日「伊野町史」を紐解いてみると仁淀川橋の項に「明治四十四(1911)年着工、工費八万一千円で大正二(1913)年に堂々たる鉄橋が完成した」という内容の記事がありました。残念ながら昭和5(1930)年に完成する現鉄橋(二代目)への変遷に関する記述はなく、「堂々たる鉄橋」がなぜ短命(17年)で廃されてしまったのかは謎のまま残りました。
ちなみに初代鉄橋が架けられる以前は渡船の渡し場があり、明治末頃には船橋(仮橋)が設けられていたそうです。どちらも有料だったので大層評判が悪かったとか。

新仁淀川橋完成予想図
初代仁淀川橋の架橋からおよそ100年、まもなく三代目の橋が完成しようとしています。
高知西バイパス2期区間(L=5.5km)の内、新仁淀川橋を挟む天神IC〜鎌田IC間(L=約1.2km)は先行整備が進んでおり、数年以内に部分開通する予定だそうです。この間だけ開通したとしても効果はかなり限定的な気もしますが。

【C地点】 建設中の天神IC

【D地点】 新仁淀川橋


E地点 仁淀川橋梁
【近代土木遺産Cランク】
大正13年に開通(橋歴板によると製作は大正拾弐年)した土讃線の仁淀川橋梁(L=397m、下路トラス橋8連)も近代土木遺産に指定されています。

【A地点】 西衣山駅付近(手前を走るのはJRの「しおかぜ」)
もう一つの失われた伊予鉄の隧道である衣山隧道は、古三津から松山平野へ抜ける江戸谷にありました。
江戸谷は藩政時代から松山藩の参勤交代路でもある三津街道(現県道19号線)が通っていた交通の要所で、明治以降はこの谷間の狭窄部に伊予鉄道(明治21年開業)、松山電気軌道(明治44年開業・昭和2年廃止)、国鉄予讃線(昭和2年開業)が相次いで敷設されています。この中で廃線になっている松山電気軌道についてはいずれ別項にて紹介する予定です。

【B地点】 明治中頃の三津街道(現・西衣山駅付近)
三津街道の内、旧衣山村内の区間は急坂(衣山隧道上が最高所)に加え、雨が降れば人馬の通行もままならない泥濘と化してしまい、かつては「八丁畷」の難所と呼ばれる非常な悪路でした。この為、松山〜大阪間の木材貨物運賃は三津浜〜大阪間よりも松山〜三津浜間の方が高くつく有様だったとまで言われたそうです。
このような三津街道の劣悪な交通事情は伊予鉄道が設立される大きな原動力になり、明治21年に中四国九州で初の鉄道として松山〜三津間が開業する事になります。

【B地点】 現在の三津街道(上の写真とほぼ同位置)

明治36年測図「松山」(1:20,000地形図)

現在の衣山周辺地図

衣山隧道跡(奥が衣山駅側)
衣山隧道も昭和6年の電化・複線化時に開削されましたが、伊予鉄道発行の「五十年譜」にて煉瓦のアーチ環だけが残った状態の開削途中の衣山隧道を見る事が出来ます。昭和6年以前の地形図には衣山隧道の約150m東方の堀割にも跨線橋(点線道)が描かれていますが、こちらは開削後に再建される事はありませんでした。

三津街道の跨線橋
隧道の跡地に架けられた三津街道の跨線橋は、昭和6年当時の物が現在も使われています。

跨線橋の上から衣山駅方面を見る

【C地点】 牛車が通る明治中頃の三津街道
この三津街道の写真は松山城の見え具合から衣山隧道を跨いですぐ東側のようです。
詳しくは松山電気軌道の項で書きますが、衣山隧道東付近(【C地点】)〜六軒屋間の三津街道上には、明治44年から昭和2年まで松山電気軌道の軌道線(路面電車)が敷かれていたものと考えられます。

【C地点】 現在の三津街道(上の写真とほぼ同位置)
松山城はほとんど見えなくなった

衣山金比羅神社から三津街道と松山城を見る

伊予鉄道の現路線にはトンネルが一つもありませんが、かつては高浜線に高浜隧道と衣山隧道という隧道が存在していました。この二つの隧道はいずれも昭和6年の電化・複線化に際して開削撤去されています。

【A地点】 梅津寺海岸
高浜隧道は伊予鉄道の三津〜高浜間延伸開業時(明治25年)に、梅津寺と高浜を隔てる「黒岩の半島」の鞍部に穿たれました。開削後の隧道跡地は堀割になり、その上を県道19号線(松山港線)の跨線橋が架かっています。

【A地点】 梅津寺海岸(上の写真とほぼ同位置)
この写真の正確な撮影時期はわかりませんが、高浜線は電化、複線化、762mm軌間から1067mm軌間への改軌が全て昭和6年に行われている事から、少なくともそれ以前の物と考えられます。また、この年(昭和6年)にそれまで海水浴シーズンだけの臨時駅だった梅津寺駅(明治32年開業)が常設駅に昇格しています。

梅津寺駅と梅津寺パーク(平成18年12月12日撮影)
梅津寺駅には伊予鉄道が経営する梅津寺パークという遊園地が隣接していましたが、入園者の減少と施設の老朽化が原因で平成21年3月15日をもって閉園してしまい、現在は公園部分(梅園)のみ営業しています。

梅津寺公園に展示されている伊予鉄道1号機関車(鉄道記念物)
この機関車は「四輪連結水槽付機関車」で、明治21年伊予鉄道株式会社が松山〜三津間に、軌間2呎6吋(0.762メートル)の鉄道を敷設した時から使用されたもので、ドイツのミュンヘン州クラウス製造所から輸入されました。当時は米1升が4銭5厘の時代に、この機関車の価格は9,700円でした。
爾来線路も延長されて明治、大正、昭和、と実に67年にわたり松山平野を走りつづけました。夏目漱石の名作「坊っちゃん」に登場してからは、「坊っちゃん列車」の愛称で親しまれてきましたが、いまは使命を全うしてここに保存されています。
わが国に現存する最古の軽便鉄道機関車として、昭和42年10月、日本国有鉄道から鉄道記念物として指定されました。
(案内板より)

梅津寺パークにあったアトラクションの一つ「坊っちゃん号」

ジェットコースターの最高所から梅津寺駅を撮影

【B地点】 高浜隧道跡
高浜隧道の跡地に架かる昭和橋(現在の橋は平成元年9月完成)。伊予鉄道発行の「五十年譜」にて撤去工事中の高浜隧道を見る事ができます(殆ど撤去し終わった状態ですが)。
隧道の開削時に堀割を切り広げて複線化されましたが、戦争末期の昭和20年に金属供出の為、高浜線全線が単線に戻されてしまいました。この時に剥がされたレールは予讃線最後の開通区間である八幡浜〜卯之町間に転用されたそうです。
戦後になって順次再複線化が行われたものの末端部分の梅津寺〜高浜間だけは単線のままです。

昭和橋の上から梅津寺側を見る
高浜隧道開削時に生じた土砂は梅津寺飛行場(梅津寺パークのあった場所)の埋立に使用されたそうです。梅津寺飛行場からは昭和30年頃まで大阪・別府行きの飛行機が発着していました。

昭和橋の上から梅津寺側を見る(平成18年12月12日撮影)

昭和橋の上から高浜側の堀割を見る

明治36年測図「三津浜」(1:50,000地形図)
明治25年に開業した当時の高浜駅は現在位置より少し南側、高浜隧道を抜けてすぐの所にありました。明治38年に北へ480m延伸して桟橋前の現在地に移転しています。

現在の梅津寺・高浜周辺地図

【C地点】 旧高浜駅跡
何の遺構も残っていませんが、ここが104年前まで高浜駅があった場所です。高浜隧道への登り勾配の入口に位置している為、軽便の蒸気機関車では発進に苦労したものと思われます。

現在の高浜駅

高浜駅舎
【近代土木遺産Cランク】
現在の高浜駅舎は去年解体された三津駅舎と同時期の昭和6年頃の建造だと言われています。この駅舎にもかつては三津駅と同じアール・ヌーヴォー調の曲線デザインがあったそうですが、残念ながら改修時に塗り潰されてしまいました。

高浜港
高浜駅と県道を挟んだ正面に伊予鉄道が開いた高浜港があります。明治時代以降、松山の海の玄関口の役割を果たしてきましたが、船舶の大型化に伴い次第に手狭となり、昭和42年に松山観光港が完成すると遠距離フェリーの発着は観光港へと移りました。

高浜駅北口の観光港行連絡バス乗り場
高浜駅〜松山観光港間は約700mあり、この区間は伊予鉄の連絡バスが運行しています。観光港開港時から高浜線の延伸構想がありますが、何かと難題があるらしく現在の所は延伸の目途は立っていません。

山手隧道 石川町側坑口
横浜市中区の石川町と麦田町を結ぶ山手隧道。
向かって右側が昭和3年に震災復興事業によって開通した山手隧道(L=219m)で、現在は北行き専用で利用されています。左側は明治44年開通の横浜市電(路面電車、昭和45年廃止)のトンネル(本牧トンネル)を昭和51年に改築し、南行き専用の自動車道路となった第二山手隧道(L=268m)です。
【地図】

山手隧道
【近代土木遺産Aランク】
山手隧道の幅員は11.5mあり、これは戦前の道路隧道としては最大級の規模と言われています。外観の汚れが殆ど無い事もあって現代のトンネルと比べても全く遜色ありません。内部は煉瓦覆工のはずですが補強用金属プレートで完全に覆われている為、残念ながら確認する事は出来ません。

隧道内から麦田町方面を見る

山手隧道麦田町側坑口と桜道橋
麦田町側の坑口前にはRCコンクリートアーチ橋の桜道橋が架かっています。この橋は山手隧道掘削の際に生じた堀割で分断された道路の交通を確保する為に山手隧道の工事と同時進行で建設・設計されました。

山手隧道 麦田町側坑口
坑門は石張り造り。現地では見落としてましたが、坑門の端の方に小さめの扁額が付いていたみたいです。

横浜市電の「本牧トンネル」だった「第二山手隧道」の麦田町側坑口

上の写真とほぼ同じ位置から撮影された 市電時代の本牧トンネル

本牧トンネルを抜ける1500型電車

本山駅跡のホーム
昭和5年10月に鶴見臨港鉄道(現・鶴見線、当時は貨物線だった)が弁天橋〜鶴見間(L=2.0km)を開業させ旅客営業を開始しました。この時、鶴見駅と国道駅の中間辺りに設置されたのが本山(ほんざん)駅です。駅名は西側に隣接する曹洞宗大本山総持寺に由来しており、本山駅も参拝客の乗降で賑わったと言われていますが、何故か開業から僅か12年後の昭和17年12月に廃止されてしまいました。現在でもプラットホームが残っていますが、高架上に位置している為、列車以外では接近する術はありません。
なお、鶴見臨港鉄道は本山駅廃止の翌年(昭和18年)に国鉄に買収され国鉄鶴見線となりました。
【地図】

鶴見線の列車内から撮影した本山駅跡。少し手前にホームへの階段も残っています。

コンクリートで塞がれている本山駅入口

ホームへ上がる階段

この上が本山駅。高架下部の斜めになっている所が階段部分。

駅のすぐ前が総持寺

総持寺踏切(奥が総持寺側)
本山駅のすぐ北には線路11本(横須賀線×2、京浜東北線×2、東海道本線×2、東海道貨物線×5)を跨ぎ、開かずの踏切として名高い「総持寺踏切」があります。一番上の写真は踏切の歩行者用跨線橋から撮影しました。

鶴見線・東海道本線跨線線路橋
現在の東海道本線跨線線路橋は、昭和9年に鶴見臨港鉄道が国鉄鶴見駅へ乗り入れを開始したのと同時に架け替えられた物です。それ以前の4年間は一体どんな橋が架かっていたのでしょうか。

鶴見線高架橋、国道駅【近代土木遺産Bランク】
近代土木遺産にも指定されている東海道本線跨線線路橋から国道駅にかけての鶴見線高架橋は、下部が住居や居酒屋のスペースになっており、何とも独特な雰囲気を醸し出しています。
【地図】

鶴見線高架橋下の国道駅改札口

国道駅ホーム






