
旧国道11号線 平井町交差点
旧国道11号線(現・愛媛県道334号線)の小野川橋は、讃岐街道(当時は国道24号線)の新道として昭和7(1932)年に開通したRC桁橋です。去年から架け替えに伴う準備工事が始まっていましたが、今日通ってみると架設橋に切り替えられ後は撤去を待つばかりとなっています。

小野川橋東詰
橋本体はまだ残っていますが、橋上の舗装は剥がされ親柱は4基全て撤去されていました。

小野川橋東詰
(平成17年6月19日撮影)

親柱 「昭和七年三月竣工」

小野川橋
【近代土木遺産Cランク】

小野川橋西詰

小野川橋西詰
(平成17年6月19日撮影)

親柱
撤去された親柱は交差点傍の空地にまとめて置いてありました。新橋に再利用するつもりなんでしょうか?


三蟠鉄道は江戸時代から岡山(京橋港)の外港として栄えていた三蟠港が、明治43年に開業した国鉄宇野線・宇高連絡船に岡山の海の玄関口の地位を奪われる形になった事から、これに対抗すべく大正4年に地元有志によって敷設された軽便鉄道です。
岡山市街南部の桜橋駅(後に国清寺駅に変更して岡山電気軌道に接続)と三蟠港間、約7kmを結んでいましたが沿線には大きな集落が無く、また大正末から昭和初期にかけて旭川の浚渫工事と小型船舶の普及が進んだ事により多くの貨客船が直接、京橋港へ入港するようになり三蟠港と三蟠鉄道の役割は急速に失われ、開業から僅か16年後の昭和6(1931)年に全線が廃止されてしまいました。路盤の一部は岡山県道45号線の建設用地になり、廃線の翌月からこの新道を通る岡山〜三蟠の路線バス(1日22往復)が運行を開始しています。

三蟠駅舎(元・桜橋駅舎)
三蟠駅舎は三蟠鉄道で現存する唯一の駅舎です。この駅舎は開業時に旧桜橋駅に建てられた物で、大正12(1923)年の湊〜国清寺間開業・湊〜旧桜橋間廃止時に三蟠駅に移築されました(旧三蟠駅舎は国清寺駅に移築、非現存)。
現在は釣具店として使用されています。

平成6(1994)年に復元された三蟠駅起点の0キロポスト

三蟠駅跡から国清寺方面を見る
廃線から80年近くが経過し三蟠鉄道沿線は宅地化が進んだ為、全区間を通して目立った遺構は残っていませんが、所々に橋台や路盤跡が現存しているそうです。

三蟠鉄道の蒸気機関車(三蟠駅案内板より)

三蟠駅〜国清寺駅間(L=7.2km)には浜中、宮道、下平井、上平井、湊、桜橋、網浜の7駅が設置されていました。

大正時代の岡山市街地図

長沢トンネル 長沢側坑口
(平成22年1月23日撮影)
去年(平成21年)の1月から拡幅工事中だった高知県道40号線(石鎚公園線)の「長沢隧道」が完成したという情報を貰ったので通ってきました。拡幅改修に伴い名称も「長沢隧道」から「長沢トンネル」に変更され、すっかり現代的な(特徴の無い)トンネルに生まれ変わっておりました。 【地図】
【長沢トンネル】
平成21年1月15日着工・11月20日開通
延長49.5m、幅員6.5m、高さ4.5m

長沢隧道 長沢側坑口
(平成20年4月29日撮影)
「長沢隧道」は長沢ダム建設に伴い建設された付替え道路で、ダムの完成と同年の昭和23年に開通しています。
延長50m足らずの小隧道ながら普通車がギリギリの幅しか無く、内部が僅かに屈曲しているため先入車の確認が出来ないという、今時の主要地方道としては難易度が高めの隧道でした。
【長沢隧道】
昭和23年竣工
延長49.7m、幅員3.3m、制限高3.5m

長沢側旧坑門

屈曲して見通しが悪かった隧道内部、老朽化のため漏水も著しい

上の写真とほぼ同位置から撮影
大断面になったので、この程度の洞内カーブは全く問題無し

長沢トンネル 越裏門側坑口

改修前の越裏門側坑口

越裏門側旧坑門

A地点 仁淀川橋
【近代土木遺産Cランク】
高知県伊野町内の仁淀川に架かる仁淀川橋(L=373.7m、W=5.0m、下路単純トラス7連)。
今から約80年前の昭和5年に県道松山高知線(現国道33号線)の橋梁として完成しました。戦前に架けられた国道33号線の橋は昭和40年代までに全て旧道化している為、同国道の橋の中ではダントツの古さを誇っています。辛うじて二車線幅が確保出来ていた事が長寿の秘訣だったのでしょうか。最近になってようやく高知西バイパスの新仁淀川橋の架設工事が始まりました。

親柱 「によどがわはし」
親柱は歩道設置時に撤去されたのか下流側のみ現存しています。

橋歴板 「昭和五年十月製作 株式会社播磨造船所」

歩道部分(仁淀川歩道橋、W=2.0m)は昭和43年3月完成

仁淀川橋梁と新仁淀川橋
下流の方を見ると建設中の新仁淀川橋(L=508m)が見えました。その手前の鉄橋は土讃線の仁淀川橋梁です。新仁淀川橋は約1km離れているのでバイパス開通後も仁淀川橋は(たぶん県道39号線に編入して)生活道路として残る事になるでしょう。

【B地点】 仁淀川橋東詰の交差点
仁淀川橋を渡ると寒風山トンネルを経て愛媛県西条市に向かう国道194号線との交差点に突き当たります。丁字路ながらも国道33号線同士の行き来に青の時間をかなり長めに取っていますが、それでも朝夕には橋上を埋め尽くす程の渋滞が発生しています。

【B地点】 仁淀川橋
こちら側も歩道側(上流)の親柱が撤去されていました。

激しく損傷している親柱 「昭和五年十月架設」

【B地点】 仁淀川橋東詰の交差点(高知市側から)

【B地点】から対岸を見る
「さて帰ろう」と思っていると現橋のすぐ上流側に橋脚の基礎のような物??が対岸まで点々と続いているのに気付きました。

【A地点】から対岸を見る
それはやはり橋脚の跡だったようです。全部で5基残ってました。東側(写真奥側)には橋台は残っていませんが…。

【A地点】 煉瓦橋台
西側には立派な煉瓦製の橋台が現存していました。
これまでに何十回と通っている道ですが、車からは死角になっているのか全然気付きませんでした。現仁淀川橋が古い事もあって初代の橋梁だと勝手に思い込んでいた為、先代の橋の存在とその遺構が残っていた事には驚きました。

【A地点】 仁淀川橋西詰
(正面の電光掲示板の裏が煉瓦橋台)
そう言えば西側の橋への取付け道路は微妙にクランク状になっていて、以前からかすかな違和感は感じていたのですが、旧橋の存在に結び付ける事は出来ませんでした。まだまだ修行が足りないな。

旧橋の事が気になったので後日「伊野町史」を紐解いてみると仁淀川橋の項に「明治四十四(1911)年着工、工費八万一千円で大正二(1913)年に堂々たる鉄橋が完成した」という内容の記事がありました。残念ながら昭和5(1930)年に完成する現鉄橋(二代目)への変遷に関する記述はなく、「堂々たる鉄橋」がなぜ短命(17年)で廃されてしまったのかは謎のまま残りました。
ちなみに初代鉄橋が架けられる以前は渡船の渡し場があり、明治末頃には船橋(仮橋)が設けられていたそうです。どちらも有料だったので大層評判が悪かったとか。

新仁淀川橋完成予想図
初代仁淀川橋の架橋からおよそ100年、まもなく三代目の橋が完成しようとしています。
高知西バイパス2期区間(L=5.5km)の内、新仁淀川橋を挟む天神IC〜鎌田IC間(L=約1.2km)は先行整備が進んでおり、数年以内に部分開通する予定だそうです。この間だけ開通したとしても効果はかなり限定的な気もしますが。

【C地点】 建設中の天神IC

【D地点】 新仁淀川橋


E地点 仁淀川橋梁
【近代土木遺産Cランク】
大正13年に開通(橋歴板によると製作は大正拾弐年)した土讃線の仁淀川橋梁(L=397m、下路トラス橋8連)も近代土木遺産に指定されています。

【A地点】 西衣山駅付近(手前を走るのはJRの「しおかぜ」)
もう一つの失われた伊予鉄の隧道である衣山隧道は、古三津から松山平野へ抜ける江戸谷にありました。
江戸谷は藩政時代から松山藩の参勤交代路でもある三津街道(現県道19号線)が通っていた交通の要所で、明治以降はこの谷間の狭窄部に伊予鉄道(明治21年開業)、松山電気軌道(明治44年開業・昭和2年廃止)、国鉄予讃線(昭和2年開業)が相次いで敷設されています。この中で廃線になっている松山電気軌道についてはいずれ別項にて紹介する予定です。

【B地点】 明治中頃の三津街道(現・西衣山駅付近)
三津街道の内、旧衣山村内の区間は急坂(衣山隧道上が最高所)に加え、雨が降れば人馬の通行もままならない泥濘と化してしまい、かつては「八丁畷」の難所と呼ばれる非常な悪路でした。この為、松山〜大阪間の木材貨物運賃は三津浜〜大阪間よりも松山〜三津浜間の方が高くつく有様だったとまで言われたそうです。
このような三津街道の劣悪な交通事情は伊予鉄道が設立される大きな原動力になり、明治21年に中四国九州で初の鉄道として松山〜三津間が開業する事になります。

【B地点】 現在の三津街道(上の写真とほぼ同位置)

明治36年測図「松山」(1:20,000地形図)

現在の衣山周辺地図

衣山隧道跡(奥が衣山駅側)
衣山隧道も昭和6年の電化・複線化時に開削されましたが、伊予鉄道発行の「五十年譜」にて煉瓦のアーチ環だけが残った状態の開削途中の衣山隧道を見る事が出来ます。昭和6年以前の地形図には衣山隧道の約150m東方の堀割にも跨線橋(点線道)が描かれていますが、こちらは開削後に再建される事はありませんでした。

三津街道の跨線橋
隧道の跡地に架けられた三津街道の跨線橋は、昭和6年当時の物が現在も使われています。

跨線橋の上から衣山駅方面を見る

【C地点】 牛車が通る明治中頃の三津街道
この三津街道の写真は松山城の見え具合から衣山隧道を跨いですぐ東側のようです。
詳しくは松山電気軌道の項で書きますが、衣山隧道東付近(【C地点】)〜六軒屋間の三津街道上には、明治44年から昭和2年まで松山電気軌道の軌道線(路面電車)が敷かれていたものと考えられます。

【C地点】 現在の三津街道(上の写真とほぼ同位置)
松山城はほとんど見えなくなった

衣山金比羅神社から三津街道と松山城を見る





